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Maureenから教わったこと 教授 藤本哲史
Maureen Hallinan
Maureen Hallinan

今年1月、Maureen Hallinan先生が亡くなった。享年73だった。Maureenはアメリカ社会学会の第87代会長を務めた教育社会学の重鎮だ。特に、初等・中等教育におけるトラッキング(学校で生徒を能力別・適性別にグループ分けするシステム)に関する研究の世界的権威だった。

私がMaureenに出会ったのは、私がアメリカの大学院で修士課程に入学した年の秋学期だった。Maureenは私の指導教員ではなかったが、彼女が担当するResearch Practicumという論文指導科目が修士、博士ともに2年間必修だったため、私も彼女の授業を受講することになった。彼女はとても物静かな女性で、話し方も常に穏やかだ。しかし、その眼差しは冷たい鋼のようで、いわゆる「口元は笑っていても目は笑っていない」タイプだ。授業は受講生が自分の研究テーマに沿って1週間の進捗を数ページのレポートにまとめて報告する形式だったが、彼女の指導は極めてストレートで、良い報告内容はしっかりサポートするがダメな時はこてんぱん。私は学位研究のイロハもわからないまま大学院に進んだため、毎週月曜の授業中は緊張で息が詰まりそうだった。Maureenは、私が1週間かけて一生懸命書いていったレポートを斜め読みするようにサラッと目を通し、それをポンと机の上に置いて“What is this?”と突き返すことなどざらだった。私は自分が1週間かけてやったことを何とか説明しようと食い下がるのだが、結局「鋼のような青い目」に抑え込まれ、しどろもどろになり惨敗。そして、翌週までに書き直し、の指示を受けるのだった。1週間かけて必死で書く→Maureenに見せる→ダメ出し…、この連続。あの時はとても苦しかったが、それでもなんとかMaureenの指導について行こうとしていた。

修士2年目の秋学期、MaureenのResearch Practicumを受講していたのは私を含む4名の大学院生だったが、そのひとりにRonという博士課程の学生がいた。彼は私よりも15歳以上年上で、もともとプロテスタント教会の牧師だったが、社会学の博士学位を取得するためいったん牧師の仕事を辞めて大学院に入り直した人だった。Ronは社会経験がとても豊富で、社会学に関してもいろいろな知識を持っていたので、自分にとって頼りになる先輩だった。彼はとても親切で、私の勉強が行き詰まりそうなとき何度も助けてもらっていた。

そのRonが学期の途中から授業にレポートを持ってこなくなった。授業ではその週にどのような文献を読んだかの報告ばかりで、Maureenに「書いたものは?」と尋ねられても、「今はまだ文献を読んでいる段階なので、これから整理していく予定です」という返事を繰り返していた。自分も傍から見ていて「大丈夫かな…」と思ったが、Ronは博士課程なので調べる文献の量が多いだろうから、きっと数週間したらしっかりしたレポートを書き上げてくるのだろうと思っていた。Maureenも最初のうちはRonの研究の進め方を容認していたように思う。

そのような状況がしばらく続いたある月曜の授業のこと。Maureenにその週の進捗を尋ねられたRonはやはりそれまでと同じように「○○を読んだ、△△も読んだ」の返答をした。Maureenは黙ってRonの報告を聞いていたが、Ronが話し終わると彼を凝視し、少し間を置いて、静かだがいつもより厳しい口調で言った。

“Ron, you will never finish.(あなたには学位は終えられない)”

“You can never finish”ではなく“You will never finish”である。その瞬間その場の空気が凍りついたのをはっきり覚えている。言うまでもなく、私を含む他の受講生3人は完全に固まっていた。さすがにRonもMaureenのストレートな言葉に憤慨した様子で、彼女に対していろいろと反論していたが、彼女はびくともしなかった。今でもあの時の張りつめた状況が忘れられない。その月曜日以降、Ronがその授業に来ることは無かった。そして、私が博士学位を修了する前にRonは自主退学し大学院を去って行った。

あの時は授業について行くのが精一杯だったが、2年間のResearch Practicumを通してMaureenからとても重要なことを教わったと思う。そして彼女がいなくなった今、改めてそのことを思い返している。それは当たり前で単純なことだ。「読むだけでは学位研究は進まない、書かなければ学位は終えられない。」もちろん研究する上で文献渉猟は不可欠だ。多くの文献に目を通すには時間もかかる。しかし、読むことは基本的に楽だと思う。それに対して書くことは「産みの苦しみ」を伴う作業だ。書けば書くほど自己嫌悪に陥ることもある。あれこれ言い訳してはつい書くことを先送りしたくなる。Ronが書かなかった、書けなかったのには何か理由があったのかもしれない。しかし、書かなければ“You will never finish”だ。これが我々の現実だと思う。

私はMaureenから教わったことをこれからも思い出しては自戒するとともに、自分の学生たちに書き続けることの大切さを伝えていくのだと思う。