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ワルキューレとシビリアン・コントロール 教授  武蔵勝宏

プロローグ

ケンブリッジ大学の冬景色。キングス・カレッジ(チャペルとその右側)とクレア・カレッジ(その左側)。ケム川が流れる。
写真1 ケンブリッジ大学の冬景色。キングス・カレッジ(チャペルとその右側)とクレア・カレッジ(その左側)。ケム川が流れる。

1年間赴任していたケンブリッジ大学(写真1)から帰ってきて、ちょうど半年が経ちました*1。 滞在中の座右の書は、藤原正彦さんの好著『遥かなるケンブリッジ』。彼が、1980年代に当地で過ごしたときの紀行です。この本を読むといつでも、 未知なる学問に向き合う、若かったころの緊張感を、柔らかい懐かしさをもって思い出すのでした。
藤原さんは、ケンブリッジ大学で数学の世界的な大家に出会っては、自分もまた第一級の数学者になりたいと心を打ちふるわせます。 その肩の力の入り方は、読んでいて気の毒なほどです。
たしかにケンブリッジは、若者に対してみずからの自堕落を叱咤し品格の高みを仰ぎ見させるパワーを持ったところでした。 何しろ、科学の骨格構造の大部分は、ここで誕生したのですから仕方がありません。

ウールズソープに今も残るアイザック・ニュートンの生家。
写真2 ウールズソープに今も残るアイザック・ニュートンの生家。

私自身、ケンブリッジ大学の存在を知ったのは、幼いころアイザック・ニュートンの伝記を読んだときでした。
ケンブリッジは、ロンドンの北100キロほどのところにあります。そのケンブリッジからさらに100キロほど北にあるウールズソープという村(写真2)で1642年に生まれたアイザックは、 農業に専念してほしいという母親の願いを振りきって18歳のときにケンブリッジ大学に入学します。
ところが25歳のときにロンドンでペストが流行し、彼はやむなく故郷のウールズソープに帰って、そこで1年半を過ごします。 そのたった1年半のあいだに微積分学・運動の法則・万有引力の法則をすべて発見し、その約250年後に相対論と量子力学が発見されるまでの科学の基盤をたった一人で創りあげたのでした。
今から350年も前に、この小さな島国に知の泉があったなんて、明治時代になってやっと科学をゼロから学び始めた日本人にとっては、なんと古いことでしょう。 そしてこの地は、なんと良くそれを保ち続けたことでしょう。

だから、おおむね対話のきっかけは、ケンブリッジがいかに古いか、そしてその古さを保ち続けることこそがいかに価値あるか、ということでした。
ある日、私の所属するクレア・ホールというカレッジで、いつものように夕食を取っていると、となりにすわったM教授が
「エイイチ、知ってるか。来年は、ケンブリッジ大学創立800周年なんだ」と私に切り出しました。
「ここはね、800年前にオックスフォード大学から逃げ出してきた連中が創ったんだよ」。
「そうなんですか。ではアイザック・ニュートンがここのトリニティ・カレッジに入学したのは、創立して450年以上も経ってからだったんですね」。
私がそう言うと、彼は、
「そう、その通り。そしてそれから166年後にチャールズ・ダーウィンがここのクライスト・カレッジに入った。ところで日本では、最初の大学って、 いつ出来たんだい」と挑発してきます。
「法律上は、東京大学が最も古く、1877年の創立です」と私が言うと、彼は
「なんて新しいんだ。新しすぎるよ」とはしゃぐのでした。

ケンブリッジ大学のしくみ

ブライアン・ジョセフソン教授(1973年ノーベル物理学賞受賞)とともに、キャベンディッシュ研究所の庭で。
写真3 ブライアン・ジョセフソン教授(1973年ノーベル物理学賞受賞)とともに、キャベンディッシュ研究所の庭で。

ここで、大学とカレッジの関係を簡単に述べておきましょう。
インターナショナル・バカロレア(大学入学資格認定)に合格し、さらに31あるカレッジのいずれかの入学試験にパスしてカレッジの一員になると、 自動的にケンブリッジ大学生となることになります。すると、夕方から夜にかけて、カレッジのフェローから個人指導を受けることができます。 さらに毎日、カレッジのメンバーと一緒に昼食と夕食を食べます。カレッジには多様な分野の人々がいますから、寝食をともにすることで、 一気に知識が、科学から社会科学、そして人文科学にまで広がることになります。私も、あっという間にケンブリッジ中の人々と知り合うことができました(写真3)。
一方、午前中や昼過ぎは、大学で専門の勉強をします。大学は大きく、School of Arts and Humanities(芸術・人文科学系)、 School of Humanities and Societies(人文・社会科学系)、School of Biological Sciences(生物科学系)、School of Physical Sciences(物理科学系)、 School of Technology(工学系)、School of Clinical Medicine(臨床医学系)の5つから構成されています。この大学が、学生の卒業の認定や博士の認定を行なうのです。 そしてカレッジのフェローは、同時に大学の教員でもあります。

入学はカレッジが責任を持ち、卒業は大学が責任を持つ。
これに最もよく似た日本の組織は、相撲部屋の世界でしょう。あるいは「入門は各道場、昇段審査は各武道団体」と、 武道の世界もおなじ仕組みを持っていることに気がつきます。つまり、身体的知識であれ学術的知識であれ、オープンな場で知識を伝授するシステムは、 自然な発展を促すとこのカレッジ・システムに結実するのかもしれません。
すると大学の各学部が、入学も卒業も一貫して面倒を見るという、近代以後の大学システムは、じつはたいへん人工的であって、 それゆえにさまざまな問題を持つことになった可能性があります。とりわけ大きな問題は、「横糸」をつむぐものの欠如です。 専門分野という「縦糸」以外はまったく分からないし、興味もない。日本は、ついにそんな専門バカで満ちることになりました。
文系は、科学も技術もチンプン・カンプン。いっぽう理系は、人間の心の痛みや社会の仕組みがわからない。そんな状態からは、 両者に響きわたりながら全体を俯瞰する知の泉が湧き上がることはありません。せめてリベラル・アーツに重きを置く同志社では、 このカレッジ・システムを本格的に導入すべきだと、私は強く思います。

宗教と科学

トリニティ・カレッジの食堂。手前3列が学生用。奥のハイ・テーブルがフェロー用。
写真4 トリニティ・カレッジの食堂。手前3列が学生用。奥のハイ・テーブルがフェロー用。

さて、M教授との会話に戻りましょう。
よくよく考えてみれば、ニュートン以前には、科学は存在しませんでした。星の運行の奥に本質的な法則があるのではないかと考えたドイツのヨハネス・ケプラーが、 科学の萌芽を見つけていたものの、まだ確固とした科学は誕生していないのです。
つまるところニュートン以前のケンブリッジ大学は、もっぱら神学と哲学とを教える場でした。カレッジのフェローは、妻帯を許されず一生カレッジに棲みこみました。 26歳でトリニティ・カレッジ(写真4)のフェローになったニュートンもまた例外ではありません。一生を神にささげるという点において、フェローの立場は、 宗教者の立場にたいへん近いものでした。
そこで私は、はっと気が付きました。若者たちに「知」を伝授するオープンな場という点において、オクスフォード大学とケンブリッジ大学は、 比叡山と高野山に大変よく類比できるのではないか。
仏教は、人間・社会・精神を総合的に包括する壮大な哲学でもあります。爾来、大志をいだく若者たちは、望めば比叡山・高野山に入門することができました。 しかも、そこで仏教を会得した若者たちは、山を下りて日本中に散らばり、「守破離」を実行しながら独自の思想を創りあげて、人々の救済に励みました。 比叡山に、最澄が学問所(のちの延暦寺)を創立したのが789年。高野山に、空海が学問所(のちの金剛峰寺)を創立したのが819年*2。 オックスフォード・ケンブリッジ創立の約400年前のことです。
私がM教授にそのことを説明すると、彼は、日本の歴史がイギリスより古い、ということが気に入らなかったらしく、苛立ちながら「本当なのか。タケヒコ」と、 さらにとなりに座っていた科学史の専門家のH教授に聞きました。東大からやってきていたH教授としては、 立場上私のいささか乱暴な類比に同意するわけにも行かなかったのでしょう。「1600年からはじまる江戸時代には、 各大名は藩校をつくって藩士の師弟に対して学問を教えていました。これは事実上、高等教育機関として機能していたと思います」とじょうずに着地点を見つけました。

エドウィン・フォン・ベルツの銅像。東京大学本郷キャンパス。
写真5 エドウィン・フォン・ベルツの銅像。東京大学本郷キャンパス。

そんな会話の中で、私はふと日本の科学の不幸に思い至りました。
日本人の科学的精神の異常なまでの欠如は、さかのぼってみれば明治における科学の輸入プロセスに原因があるのではないか、と。 元来、神学と哲学の中から自然に沸きあがるように生まれ出てきた科学を、日本ではそこだけ切り出して輸入してしまったために、 いびつな形で捉えてしまったのではないだろうか。しかもそれを近代化のためのツールとして教授してしまったので、 その基底にある人間の「魂」を捨て去ってしまったのではないか。
明治期のお雇い外人の一人で東京大学の医学の教授をしていたエドウィン・フォン・ベルツ(写真5)は、当時こんな言葉を残しています。

私の見るところでは、西洋の科学の起源と本質に関して、日本では、しばしば間違った見方がとられているように思われます。 日本の人々は、この科学を、年にこれこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、 そこで仕事をさせることのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、 一つの生命なのでありまして、その成長には他のすべての生命と同様に一定の気候、一定の大気が必要なのです。

このときからすでに100年以上経つのに、日本は、今でも科学を技術のための「機械」と考えているようです。 私が拙著「JR福知山線事故の本質」で論証したように、科学的精神を完全に欠いた会社や組織ができあがるのも、 結果としてこのような悲劇的事故が起きてしまうのも、根本原因はそこにあるような気がしてなりません。

京都の新しい可能性

そのように考えてくると、私たちは、そろそろ科学を、それを生み出した人間の「魂」と不可分なものとして捉えなおす時期に来ているのではないかと思い至ります。 さいわい、同志社大学の工学部は理工学部と名称変更して、工学の本質にある科学に下り立とうという決意を表明しました。 「魂」のない工学も科学も確かに存在しえないのです。
すでに述べたように、科学は、神学の中から、アンチテーゼのかたちを取って生まれ出てきた生命体です。 そのアンチテーゼの鍵を提供したのが、アリストテレス哲学でした。つまり科学は、キリスト教とギリシア哲学とを両親として持っていたのでした。
ところが、そんな科学は、いまや自然を解剖し、ついに解剖しつくして自然を壊そうとしています。逆説的ですが、現状の科学が万能だと考えている限り、 科学が自然を壊してしまうという性質を正すことはできません。
もしそんな科学をさらに気高いものに止揚させられるとすれば、科学が出会うことのなかった東洋思想、 とりわけ仏教の役割はたいへん大きいものになるかもしれません。量子力学の創始者エルヴィン・シュレーディンガーの 「(精神の問題を考えるためには)西洋科学は東洋思想の輸血を必要としている」という言葉は、いまようやく光を帯びてきたように思います。

となると、京都の世界的使命は、これから格段に大きくなるはずです。なにしろ生きた仏教寺院がこんなにも高密度に集積し、 しかも科学を生み出す場としての大学が同時に集積している場は、京都をのぞいては世界のどこにもないのですから。
しかし残念なことに、この2つの「知」の道場は、これまで相互作用を持ちませんでした。科学が、旧来の東洋思想と断絶した形で輸入されたからですが、 仏教寺院が、観光と葬式儀典としての機能をのぞけば、市民の精神の救済に具体的にかかわろうとしなかったからでもあります。
ここまで議論してくれば、自然に一つの仮説を導くことができます。
科学を生み出すプロセスが新しい高みに至るためにも、仏教寺院がその本来的意義をとりもどすためにも、それぞれは互いに共鳴しあうべきではないか。
これらは、ともに人間のほとばしるような「魂」から湧き出てきたものです。しかも、科学とは、「知」の創造のことに他ならず、 かつ「知」の創造は、完全なる精神の自由が成立して初めて成されることができるものです。いっぽう仏教は、 さまざまな精神のトラップから抜け出して自己を自由にする方法を、私たちに教えてくれます。元来、実は両者はたいへん親和的なのです。 だから京都にいる私たちは、人間の未来ビジョンとして宗教と科学との共鳴関係を本質から考えていかねばなりません。

ケンブリッジ現象から何を学ぶか

キャベンディッシュ研究所。ここで、2008年9月に第5回STEP(Science & Technology Entrepreneurship Program)を行ない、ヨーロッパ中の日本企業のCTOや研究所長に集まってもらうとともに、日本から起業家や起業家たらんとする若者たちに集まってもらった。STEPについて、詳しくは
http://www.doshisha-u.jp/~ey/japanese/education.html
写真6 キャベンディッシュ研究所。ここで、2008年9月に第5回STEP(Science & Technology Entrepreneurship Program)を行ない、ヨーロッパ中の日本企業のCTOや研究所長に集まってもらうとともに、日本から起業家や起業家たらんとする若者たちに集まってもらった。
STEPについて、詳しくは
http://www.doshisha-u.jp/~ey/japanese/education.html

ケンブリッジ大学の古いカレッジは、500年以上その姿を変えていません。じっさい写真1に示されたものとまったく同じ風景を、 アイザック・ニュートンもまた見ていたといわれています。その古さこそが、キリスト教とギリシア哲学との衝突と止揚の中から生まれた科学の骨格構造をささえてきたのでした。
ところが、そのケンブリッジ大学は、いまや米国シリコン・バレーに次いで、起業家たちのダイナミックな共鳴場へと変容を遂げつつあります。 第6代キャベンディッシュ・プロフェッサーのサー・ネビル・モットが、1969年にモット・レポートを出して以来、 産業界と積極的に連携しながらサイエンス型産業を促進させるエンジンになることを志向して、 トリニティ・カレッジやセントジョンズ・カレッジなどがサイエンス・パークやイノベーション・パークなどをつくりはじめます。 その後、1970年代後半になって、キャベンディッシュ研究所(写真6)などから、ハーマン・ハウザーをはじめとする若者たちがつぎつぎに起業をし、 1980年代には、ついにサイエンス型産業の集積が起こったのです。ケンブリッジ現象です。
現在、ケンブリッジ・クラスターを形成しているサイエンス型企業は、約1000社。この約1000社の企業が生み出す年間売上は約40億ポンドで、 その雇用者総数は約3万人。ある証券会社によれば、ケンブリッジは、ロンドン、パリ、ストックホルム、 ダブリンに次いで第5のヨーロッパ株取引の場になったといいます。

人口10万人にすぎないこの小さな町で、いったい何がおきたのでしょうか。じつは、もっとも大事な本質は、 ケンブリッジ大学の卒業生たちがポスト工業化社会の産業構造をいち早く予見して、みずから果敢にベンチャー企業を創りはじめたことにあります。 いわば、創造的な若者たちが、大企業の中にはみずからの創造性を発揮できる場が少ないことを悟って、 「三途の川を跳び越す」チャレンジ精神と「自分の人生を精一杯生きる」回遊的思考を持ち始めたのでした。
ふりかえって日本の若者たちを眺めてみると、かつて以上に安定志向と内向き志向が高まっているように思えてなりません。 外国に住むことを忌み嫌うようになった最近の日本の若者たちは、チャレンジ精神や回遊的思考どころか、チャレンジの仕方も回遊の仕方も分からないまま、 そっと社会に出る傾向が高まりました。これは、日本の未来にとってほとんど危機的です。
せめて同志社出身の若者たちには、数年間をたとえ棒に振ってでも異文化に積極的に触れ、自分自身の想像力と創造力とを喚起するという心の余裕をもつとともに、 思いもよらなかったようなやり方で社会的貢献をすべく起業家や社会起業家をめざしてほしいと、つくづく思うのです。

*1 ケンブリッジ大学滞在記について、詳しくはhttp://bs.doshisha.ac.jp/blog/eyamaguchi/
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*2 空海は、さらに828年に綜芸種智院を京都に創立し、各種学芸の総合教育を行なったものの、838年に閉校した。現在の種智院大学(創立1881年)の前身といわれている。
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