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SOSEI TALK #14

総合政策科学研究科は多くの社会人学生を受け入れていますが、社会人にとって、仕事をしながら博士号を取得するということは容易なことではありません。しかしながら、自らのキャリアの中での博士号のもつ意味をよく考え、仕事と補完的な関係をつくることができれば博士論文の執筆はかなりスムースになります。今回のSOSEI TALKでは、2016年3月に総合政策科学研究科で博士号を取得された倉林陽さんをお迎えし、この辺りについてどのように取り組みをされたのかを伺いたいと思います。
出席者:三好 博昭 教授
対談者:倉林 陽 さん(一貫制博士課程 技術・革新的経営専攻修了生)
於:今出川校地烏丸キャンパス・志高館 (2016年6月10日)

三好 2016年3月に技術・革新的経営専攻で博士号を取られました倉林陽さんにお越しいただきまして、いろいろお伺いしたいと思います。
趣旨は、社会人の方が博士号を取るということの意味とか、それがいったいどういう効果があって、今はもう総政にいろんな方がいらっしゃるわけですが、先輩として彼らに、「こんないいことがあるぞ」とか、「こうやるとうまくいくんじゃないか」とか、そういう話をぜひお伺いしたいと思いまして、お越しいただいた次第です。どうぞよろしくお願いします。

まずは当研究科に入学されるまでのご経歴、ご職業などについてお伺いしたいと思います。
倉林 私は1997年に同志社大学の商学部を卒業しました。ちなみに学生時代は、ずっと体育会のバレーボール部だったこともあり、あまり勉強せずに卒業しました。その後、今キャリアが19年目なんですけど前半・後半で切りますと、最初は日本の大企業の富士通と三井物産という会社にいました。
三好 ずいぶん分野の違う会社ですね。まず初めに富士通ですね。
倉林 そうですね。就職のときにIT業界に就職しようというのは決めていました。性格的に、形が決まった分野よりも、当時すごく変革が起きていたIT分野に就職しようと業界をまず絞って決めて、富士通という会社に入りました。
その後、自分のやりたい仕事を今度は職種で切ったときに、三井物産の、当時は情報産業本部といったのですが、そちらでベンチャーキャピタルという仕事をやるのに最適だと考えて転職しました。最後はシリコンバレーに駐在させてもらって、現地でベンチャーキャピタル業もやっていたというかたちになります。
三好 富士通のときは実際どういう職種に就かれていたのですか。
倉林 富士通では、最初は携帯電話の基地局の営業をやっておりました。私が就職活動をする3年生、4年生のときに、ちょうど学生が携帯電話を持ち始めたころだったんですね。モバイルの業界にはすごく興味を持っていたので、私はNTTドコモ担当の営業を3年ぐらいやっていたんですけれども。
その後、社内で経営企画部門の募集がありました。フリーエージェントみたいなやつですね。それで幸いに選んでいただいて、そこでコーポレートベンチャーキャピタルという、今回の論文のテーマそのものですけれども、それを日本で先進的にやっていたのが、当時、富士通という会社だったので、そこの業務をやっていたと。
その流れで、当時珍しい仕事をやっていたというのも恐らくあって、三井物産に転職したというかたちになります。
三好 物を買って卸すというのが商社だと思っている方が多いと思うのですが、実はもうかなりの部分、事業会社ですよね。
新しい会社をどんどん立ち上げて、それを大きくしていっている。ある意味、日本で足りないと言われているオープンイノベーションを、ずっと前からやろうとした一つの業種ですよね。
倉林 そうですね。いわゆるコーポレートベンチャーキャピタルみたいなものを、そういう定義をしていたか、していないかは別にして、ずっとやっていたのが総合商社。特にシリコンバレーのスタートアップとの付き合い方という意味では、商社が長らくやってきたというところがあると思います。
三井物産の最後の2年間はシリコンバレーに駐在させてもらっていました。かつ、冒頭に申し上げたとおり、学生のときにあまり勉強しなかったものですから、どうしてもMBA、アメリカのビジネススクールには行きたいなと社会人になって思っていまして、駐在員だったんですけど、退職させてもらって。
三好 あ、退職されたんですか。
倉林 退職して、アメリカのペンシルベニア大学のMBAに留学したという。
ウォートン・スクールといって。
三好 有名なところですよね。
倉林 ありがとうございます。そちらに行きまして、2年間留学をしました。
そのときに、私が採用しているアメリカ人の部下に言われたのが、このまま駐在が終わって日本に戻ってしまうと、せっかくのシリコンバレーでの仕事の経験がもったいないと。
で、私もビジネススクールに行きたかったのもあって。アメリカですと、われわれみたいな仕事をするときにビジネススクールへ行ったほうがいいというのはありますので、それで留学をしたと。
それ以降はずっとグロープスパン・キャピタルというアメリカのベンチャーキャピタルファンドの日本代表と、セールスフォース・ドットコムの投資部門、今はセールスフォース・ベンチャーズといいますが、そこのヘッドを日本でやっていました。
論文を書き始めたのはそのころで、途中からDraper Nexusというファンドに参画したので、今は自分でベンチャーキャピタルをやっているというかたちのキャリアになります。
三好 なるほど。
まず、TIM(同志社大学大学院 総合政策科学研究科 技術・革新的経営専攻)に入られる前のウォートンなんですけど、ビジネススクールはいかがでしたか。
倉林 大変でしたね。まず。
三好 どっちかというと、けっこう数理系の能力が求められますよね。
倉林 まさにおっしゃるとおりで、すべてがデータドリブン (data driven)というか、マーケティングでさえも、まさにSTATSを使って分析しようという学校です。もともとファイナンスで世界一の学校なので、当然ファイナンスのほうにも数学的な要素が存分にあります。そういう意味で、入学直後に数学と統計学の授業が必須であるんですけれども、わりとそれも大変でしたね。
三好 そうですね。
倉林 勉強をちゃんとしないといけないですし、落ちると恥ずかしいのでというのもあります。
三好 それは学校を出られて何年目になりますか、ちょうど。
倉林 ちょうど丸9年か10年キャリアを経てというかたちになります。32歳の時ですね。
三好 10年ぶりにそういうのに取り組まれて違和感はなかったですか。違和感というか、あ、もう全然忘れているやないかと。
倉林 そうですね。実は留学中も大変だったんですけど、それ以上に留学の準備が大変で、GMATとTOEFLのスコアを相当高くしないとトップスクールに受からないので。そういう意味では、そこで簡単な数学みたいなものは試験の内容に入っているので、ある程度はやっていたというのがありますけれども。とはいえ、周りはアメリカ人、それから日本人の同級生を含め、学生のときもいわゆる成績優秀なメンバーが多いので、そういう意味では勉強は大変でしたね。
三好 そうですね。
倉林 あとは英語なので、日本と違いましてクラスパーティシペーションが求められるので、授業の中で手を挙げて発言をしなければいけない。そこはけっこう性格的にはできるほうだったんですけれども、日本人の方はそこで苦労されると思います。
三好 そうですね。アメリカのビジネススクールは、学校によってずいぶん特色があるみたいですね。
倉林 そうですね。
三好 ハーバードなんかですとケース中心だと聞いていますし。
倉林 はい。ウォ―トンの場合は、マーケティングとかストラデジーはやっぱりケースが多くて、一方でアカウンティングとかファイナンスはレクチャーも多くてというかたちで、組み合わせでやっていましたね。
三好 分かりました。
それでウォートンを卒業されて、すぐに日本にお戻りになった。
倉林 日本には戻りました。ただ、就職先がアメリカのVCファンドだったので、そこからはずっと外資系というかたちですね。
三好 それで、ここのTIMに、今度は。
倉林 はい。
藤本哲史
三好 博昭
同志社大学大学院
総合政策科学研究科
教授
田中秀樹
倉林 陽
同志社大学大学院
総合政策科学研究科
一貫制博士課程
技術・革新的経営専攻
修了生

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