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SOSEI TALK

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公共政策コース

川井 太田さんは小学校も中学校もかなり熱心に勉強された、非常に優秀だったというふうにお伺いしたことがありますが。
太田 はい、昔は。何かこう、勉強が結構好きだったんですよね。新しいことを知って、それを家でお話しして、「今日こんなこと習ってん」とか、好奇心も旺盛だったし、全教科やっぱり興味があったんですよ。だからこそ、いやあ、楽しかったんですよね。そして、高い得点を取るのが、また趣味みたいなもので。
川井 そういうコンペティション(競争)が好きなんですね。
太田 そう、コンペティションみたいな高得点を取るとかというのが好きだったので。だから、学校で98点とか100点とかじゃないと満足いかなくて、中学校のとき、1回だけ体育が4か何かだったんですよね。それ以外が5だったんですけど。
川井 体育が4!?
太田 ね、体育が4で。まあ保健の成績が。
川井 ああ、それ以外は5だったわけ。
太田 そっちが悪かったらしい。
川井 なるほど。
太田 だから4だったらしいんですけど、私、抗議しに行ったんです、何か納得いかなくて。
川井 なんでオール5じゃないのかと。
太田 そうです。
川井 それで?
太田 そうしたら、そのときの担当の先生が、「もうほとんど5やんねんから、こんなん一つぐらい4でもええやろ」みたいな感じやったんですけど、全然納得いかなくて、何が悪かったかとか、すごい聞いちゃった気がします。
川井 それはもともとの性格というか、誰かにやらされたとかじゃなくて、やっぱり負けたくないという気持ちというか。
太田 そうですね。負けず嫌いだったんです。
川井 いいですね。 さて、中学校、高校、大学、そして大学院と順にお伺いしていきたいと思うんですけど、中学校のときに特に印象に残っていること、教えていただけますか?
太田 中学のときは高校進学を考えていましたが、もう週6ぐらいで練習が入っていたので、塾とか行く時間もありませんでした。だからこそ高校進学を内申点重視で行けるところをというふうに、最初から少し考えてもいたので。だから、絶対にスケートも勉強も両方トップでやっていきたいみたいな、そういう気持ちがあったので、もう完璧主義者でしたね、中学のときは。
川井 そして、高校は同志社女子高校に進学されて。
太田 はい。
川井 何か同志社女子高校時代の思い出を何かちょっと話してもらえますか?
太田 中学までは公立というのもあったので、やっぱり勉強のレベルとかも、そんなに私学ほど高くはなかったのだと思います。でも、まんべんなく全ての教科でオール5に近い成績を取るというのは難しいことだったかもしれないけど、それなりには頑張ればできたんですよね。 ちょうど中学校の時期って、細身だけれども筋肉がいい具合につきはじめるなど、スケートも上達する時期であったので、とにかく全てにおいて自信がありました。それが、高校1年生で同志社女子に入ったら、もうカルチャーショックでしたね。
川井 どういう意味で。
太田 同女が自由な校風というのをうたっていることもあって、私、中学校を卒業するころまでに職場体験とかも、中卒でも働く人もいるからというので、将来のことをすごく考えながら勉強していたり、就職につなげていくことを体験したり、そういう時間がいっぱいあったのに、まずそういうのが全部なくなっちゃったし。 あと、やっぱり10段階評価になったのもあって、何だろうな。みんな、国語は10だけど体育は3とか、個性を伸ばせる教育なんだとは思ったんだけれども、オール10とか取るのは絶対不可能だと自分で感じました。だからこそ、今までそれを誇りにやってきていたのに、私って得意な科目がないなとか。
川井 ほう。
太田 得意というか、これができる、これなら誰にも負けないというのがないんだなと感じ始めて、それが劣等感とか自信喪失になってきて、それが競技のほうにも出そうになっていったという。
川井 それは高校何年生のとき?
太田 高校1年生で、入った当時です。
川井 へえ。それはどのように克服をされていったんですか。
太田 だんだん慣れると私もその場の空気に慣れていくというか、そういう感じで、私はスケートをしているんだし、みんなみたいに「これは10」とかは取れないけれども、まんべんなく6、7、8ぐらいの評価で満足するように自分に言い聞かせたのと、ちょっとぐらい妥協することとか。
川井 なるほど。うん、バランスを取っていくわけね。
太田 いつも完璧とか、いつもどれも全力という、それは無理なんだということをよくよく自分に言い聞かせました。
川井 その後、フィギュアの世界で頂点を目指されて、世界ジュニア選手権や四大陸選手権でも優勝するという、すごく輝かしい成績を残されるんですけど、当時の様子を聞かせてもらえますか。
太田 勝つことが多くなるにつれて、どんどん取材とかも増えたりしたんですけれども、そのときに高校側が私のプライベートの時間を大事にしてくれました。あまりメディアの露出もすすめなかった。 普通のほかの学校だったら、自分の学校の名前を出してどんどん出てくれという感じになったかと思うんですけど、そういうのを学校が、勉強も大事だからとか、海外遠征でも1週間とか空いちゃうから、だからこそインターハイとかに出なくていいし、必要以上にメディアにでなくてもよいと言ってくれたんですよね。
川井 あくまで太田さんが高校生らしく生活できるようにと。
太田 はい。だから、学校では特別扱いもしないし、勉強も自分で求めてやっていく分には先生も応えてくれると思うけど、特別な評価とか、特別にレポートでもいいよとか、そういうことはしないと言ってくれたので。
川井 そうでしたか。同志社のそういうところ好きです。
太田 でも、だからこそ遠征へ行くと1週間空いてしまって、その遠征が、シーズンは9月から始まるんですけど、9月からだいたい3回、4回、うまくファイナルまで残れれば4回ぐらい1週間が空いてしまうことがあるんですよ。だから、1週間分勉強が遅れるって結構大きくて、いろんな教科がありますし。 だからこそ遠征に行った次の週は、もう昼休みや放課後などを全部使って、ある時は数学科、ある時は英語科へ行って、ある時は理科の生物の先生のところへ聞きに行ってとか、そういうことをしなくちゃ追い付いてやっていけなかったから、休んでいる分のプリントをもらいに行ったりとか、そういう苦労は。まあ苦労とういうか、そういうのはありましたけど。